スニーカーの世界

19世紀中頃、天然ゴムを汎用性に優れた素材に加工するバルカナイズド製法が生み出されたことで生まれたスニーカー。スポーツに欠かせないアイテムとしてはもちろん、老若男女の足を支える日用品として、また、コレクターアイテムとしても親しまれるようになったきっかけとは?

永遠の定番、誕生

1917年に誕生し、今も履き続けられている永遠の定番といえば、コンバースのキャンバス・オールスターです。キャンバス地のアッパーにゴム製ソールのオールスターは、当時まだマイナースポーツだったバスケットボール用に開発されたバスケットボールシューズ(バッシュ)。その普及に尽力したのが、プロバスケットボール選手のチャック・テイラーでした。
高校時代からスター選手だったテイラーは、プロリーグでもオールスターを愛用し、選手でありながらコンバースの営業マンとして普及活動を始めます。その功績が称えられ、1946年にはオールスターのアンクル部分のパッチに「ALL STAR」というモデル名とともに「Chuck Taylor」の筆記体サインが加えられ、“Chucks”という愛称も生まれたほど。
また、オールスターが登場する前年、1916年にはUSラバー・カンパニーを母体にしたケッズも誕生しました。ファミリー向けのキャンバスシューズから始まったケッズ。実は、スニーカーという呼び名は、柔らかいソールのスニーカーを履けば意中の相手にこっそり近づけるという同社のキャッチコピーで使われた「sneak(忍び寄る)」が語源という説もあるんです。

もともとはひとつの会社でした

アディダスとプーマ。スニーカー界の2大ブランドは、ルドルフとアドルフのダスラー兄弟によって1920年代に創業されたダスラー兄弟商会がルーツです。靴工場で働いていた父の影響からか、パン屋の見習いを辞めて靴づくりを始めた弟のアドルフ。やがて兄のルドルフも事業に加わり、屋内スポーツ用のシューズでブランドを軌道に乗せると、1936年のベルリンオリンピックではアメリカの陸上選手、ジェシー・オーエンスにスパイクを提供。オーエンスは100m、200m、走り幅跳び、リレーの4種目で金メダルを獲得する快挙を達成し、ブランドを周知する絶好の機会となりました。
しかし、第二次世界大戦の影響でその後のオリンピックが中止され、さらに戦後は仲違いから、二人は別々の会社を設立することに……。アドルフは自分のニックネームだった「Adi」と名字の3文字「Das」を合わせてアディダスを、一方のルドルフは、名前の頭文字「Ru」と名字の頭文字「Da」を合わせて「ルーダ」と一度は名乗ったものの、より軽快な印象のプーマを社名に掲げました。オリンピックでは多くの選手がアディダス、サッカーワールドカップではプーマが支持されるなど、お互いが刺激し合うことで、スニーカーの世界も大きく成長していったのです。

日常生活にもスニーカーが

1950年代後半には、アメリカ東海岸の名門私立大学=アイビーリーグに通う学生がスニーカーをコーディネートに取り入れ、ジーンズとスニーカーの組み合わせがハリウッドスターの定番となるなど、スポーツ以外の日常生活でもスニーカーが履かれるようになりました。
1960年代中頃には、アメリカ西海岸でサーフィン熱が高まり、サーファーの間で脱ぎ履きしやすいデッキシューズが重宝されるように。そんなニーズに合わせて、1966年にはヴァンズが南カリフォルニアのオレンジカウンティで誕生します。当初はカジュアルなスニーカーを製造していたヴァンズですが、1960年代後半には、当時最先端のカルチャーだったスケートボードに興じる若者の間でヴァンズの丈夫なつくりが評価され、ブランド自体もスケーターのアイデアを取り入れた新商品を開発するようになります。

日米の2大ブランド

スニーカーブランドの中でも突出した人気を誇るナイキは、1964年、オレゴン大学の陸上選手だったフィル・ナイトがコーチのビル・バウワーマンとともにスタートしたブルー・リボン・スポーツ(BRS)がそのルーツ。当時、アメリカで圧倒的なシェアを誇っていたアディダスに挑もうと、高品質で低価格な日本のオニツカ(現アシックス)の陸上用シューズを販売する輸入代理店として始まりました。
二人は次第にオニツカの製品開発にも関わり、1967年には彼らのアイデアを反映したタイガー・コルテッツが誕生します。この一足の大ヒットで自信をつけたBRSは、度重なるオニツカとのトラブルも影響して、同社との提携を終了。ナイキとして再出発を図りました。ワッフル焼き器をヒントに開発されたワッフルソールや、ブランドの代名詞となったエアバッグなど、さまざまなイノベーションを実現したナイキは、1980年代にNBAの若手スター選手だったマイケル・ジョーダンのシグネイチャーモデル、エア・ジョーダンをリリースし、その人気を不動のものにします。

オニツカは日本スポーツ界のパイオニア

“タコ酢”にヒントを得てグリップ力を高めた吸着盤型ゴムソールのバッシュ、世界初のナイロンアッパー、マラソン選手が足袋から乗り換えるきっかけとなったマラソンシューズの開発など、1949年の創立以来、オニツカは革新的なスニーカーを世に送り出してきたパイオニア。ランナーの足にマメができないように、つま先と側面に穴を開け、着地時の熱を排出するエアーベントシステムを開発し、「ランナーはマメができて当たり前」という既成概念を壊したことでも知られています。

スポーツ選手以外で初の専属契約

1980年代に入ると、スニーカーはスポーツだけでなく、ストリートの定番アイテムにもなります。そのきっかけとなったのがヒップホップ。特にヒップホップグループのRUN-D.M.C.がアディダスのバッシュ、スーパースターを愛用していたことで、ミュージシャンもファンもこぞってアディダスのスニーカーを履くようになりました。
1986年、RUN-D.M.C.は、「My Adidas」という曲をリリースし、ニューヨークで行われたライブでは2万人もの観衆が、自分たちが履いていたアディダスを掲げて熱狂。その影響力の大きさから、彼らはアディダスとスポーツ選手以外で初めて契約を結び、ミュージシャンとスニーカーブランドとの提携の先駆けにもなったほどです。ちなみに、靴紐なしでシュータン部分を出したスニーカーの履き方を流行らせたのも彼ら。このスタイルは、刑務所でトラブルを未然に防ぐため、スニーカーの紐をあらかじめ抜いていたことがルーツなのだとか。

語り草となったハイテクスニーカー

グランジブームの影響で、コンバースのジャック・パーセルをはじめとしたローテクスニーカーも支持された1990年代、日本には世界でスニーカーカルチャーが根付く契機となった空前のスニーカーブームが訪れます。ヴィンテージブームや、1992年のバルセロナオリンピック、マンガ『SLAM DUNK』によるバスケットボール人気の高まり、そしてファッション誌の後押しもあり、「雲の上を歩くよう」「スニーカー界のロールスロイス」と評されたニューバランスの1300の再評価や、圧縮炭酸ガスを注入するポンプチェンバーで靴紐がなくてもフィットするリーボックのインスタポンプ フューリーなど、さまざまなスニーカーの魅力にとりつかれる人が急増しました。
特に、爆発的な人気を呼んだのが、1995年に発売されたナイキのエア・マックス95。アメリカでは“ただのランニングシューズ”と捉えられていた一足は、軽やかなデザインが好まれていたランニングシューズとしては重々しい色づかいで、発売前の日本では、関係者から“いも虫”とも呼ばれて不評だったとか。しかし、店頭に並べば即完売、強盗事件も発生する社会現象になったのです。ヴィンテージや別注の限定品など“レアもの”を手に入れる楽しみが広がり、スニーカーの価値が高まる一方で、この頃を境に、転売目的でスニーカーを手に入れようとする業者も生まれたといいます。


近年はハイブランドの参入や、野暮ったい見た目の“ダッドスニーカー”がトレンドになるなど、スポーツ、音楽、ファッションと幅広い分野で多様化しているスニーカー。次ページではスニーカーの最新事情も見ていきます。

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